ウィーク ポイント
いつも通り中尉に取り次いでもらって執務室の扉を開けると、そこにはありえない人物が座っていた。
扉を隔てて入室の許可を出した声は彼のもので、そこにいるはずの人物としてはまったくの予想通りだったが。
彼の取っていた行動があまりにも想定の範囲外で、エドワードは思わず小さく口を開けたまま瞬時固まってしまった。
「な、何泣いてんの…あんた?」
「泣いているわけではない」
すかさず返ってくる言葉を否定するように、彼の漆黒の瞳は赤く染まって、呆然と見ている間にも浮かび上がった水が目元を濡らしていた。
正確には、右目だけ。
「さっき空気を入れ替えようと窓を開けたら、砂が舞っていて眼に入ったのだよ」
低気圧が来ているとラジオの天気予報が言っていたが、ここまで風が強いとは思わなかった。
不機嫌丸出しで吐き捨てて、彼はその白い手袋に包まれた指先を右の目元に伸ばした。
「マヌケ」
「うるさいな。さっさと報告書をよこしたまえ」
机に肘を付いた姿勢で少し俯いたまま左目だけで視線を投げられて、来訪の目的を思い出したエドワードは持っている封筒を開き、中身を確かめようと手元を覗き込んだ。
これとこれは事務所の受付に提出する書類で、こいつに渡すべきものはここからここまで…と、後から見返すとことさら乱雑に見える文字を追いながらも、紙束の隙間から横目でロイを眺める。入り込んだ異物はまだ取れないようで、涙が止まっている様子はなかった。
右目だけが充血しているその姿は不自然で、まるで見えない敵に酷く痛めつけられたみたいに見えた。
彼はそう簡単に傷つけられるような柔らかい生き物ではないと、判ってはいるのだけれど。
書類を手にしたまま、エドワードはゆっくりと彼の真横まで歩み寄った。
「まだ取れないのかよ?」
「どこかのお嬢さんの熱い想いがこもっているらしくてね」
「怨念じゃね?」
「失礼な」
見せてみろよ、と右目を覆っていた手を掴んで顔を覗き込む。椅子に座ったままの彼の前に立つと見上げられる形になって結構気分が良いというのは、昨年辺りにここを訪れた時に気付いたことだ。
案外素直に従う彼に顔を近づけると、間近で覗き込む黒い虹彩はセックスの最中のように水気を含んで濃厚な蜜のように見えた。
「砂? よく分かんね」
よく見ようと顔を更に近づける。
もしここで彼の部下が入ってきたら確実に誤解されるであろう体勢に、――少なくとも今この現状に置いては誤解ではあるけれど、自分たちの関係性を考えれば誤解とは言い切れないが。彼は僅かに身を引く仕草をした。
「動くなよ」
「人の顔を乱暴に扱わないでくれたまえ」
「あんたがじっとしてりゃ、済む話だろ」
後ろ頭に手を回して押さえつけ、更に手袋を外した生身の左手で彼の瞼に指を伸ばす。じっと検分する間にも起こる僅かな抵抗は、単に本能的な恐怖があるせいかもしれない。
眼は動物の弱点の一つだ。そこをこんなふうに無防備に晒すことは、相手に対して全面降伏を意味している。
こんなことで、彼が手に入ったと錯覚はしないけれど。
「動くなよ」
もう一度そう言って。
「…ッ」
瞬時に身を硬くした彼を更に押さえつけ、舌を伸ばして涙を流される原因であろうものを舐め取った。
「取れた?」
「…あ、…あぁ」
視点が咬み合う距離にまで離れたエドワードは、その金色の視線をじっと彼の右目に注いだ。
作り物の人形みたいにぱちぱちと瞬きをする彼を眺めながら、そりゃ良かった、と小さく呟いた。
熱い想いでも、怨念でも、どちらでもいいけれど。
自分以外のものからの干渉が、彼から拭い去れたのなら。
「案外器用だね、君は」
「うっせ。案外は余計なんだよ」
早速軽口を叩き出した彼に悪態を繰り出すのはもはや条件反射の域に入る。大して考えなくても、口が勝手にしゃべってくれるようなものだ。
「取って食われるみたいに怯えてたクセに」
彼を椅子に押し付けるように乗り上げて至近距離でニヤリと笑ってみせると、彼は意外にも素直に少し渋い顔をした。
「この方法を実際試した人間がいたのに驚いたものでね」
「へ? そう?」
自分にとっては幼少期の通例の行為でも、彼にとっては慣れないことだったらしい。
「初めて?」
「あぁ。昔もこんなことがあって…、でも実際にされたのは初めてだ」
「…へー、いつ?」
「え? あぁ、仕官学校の、」
――あぁ、出たよ。
予知能力なんて便利なものは自分にはまるで備わっちゃいないが、前後の雰囲気で何となく嫌な予感はしていた。どうせ、誰に?
と聞いたら、あの親友殿の名前が挙がるのに多分間違いはない。
共有した時間、築き上げた信頼、積み上げた思い出の量にはどう足掻いたって叶うわけないから仕方がない。あの中佐にかけられる気遣いを、――ときおり有難た迷惑一歩寸前を掠りそうになるが、その情と懐の深さを心地良く、好ましく感じてもいる。
けど、この体勢でいる時に彼の口から聞きたい名前でもない。
「…鋼の?」
なので、手っ取り早く口を塞いでしまうことにした。
「こ…ら、」
肩を押し返されるが、重力も味方にして押さえ込むのにそんなに強い力は必要じゃなかった。
「…鋼、の、…やめなさい」
深く舌を絡めて唾液が飲み込みきれなくなったところで、幾分強い抵抗に遭う。仕方なく離れると、彼の右目の充血は治ってきているのに染まった目元がそのままなのが見えて、それで満足することにした。
いつの間にか上がっていた呼吸に余裕のなさを感じてみっともないなんて思ったりもしたけれど、それは精一杯表には出さないよう努力する。
「ここをどこだと思ってる?」
「あんたを泣かしてたモンから助けてやった俺に、感謝の意を表してくれてもいいんじゃねぇの?」
その黒い瞳を覗き込むと、彼はいつものようにふてぶてしく微笑んで見せた。
「方法に若干の問題があるとは思うがね」
「なに、あんた今度は俺に泣かされたいの?」
「謹んでご遠慮するよ」
耳元で囁いた言葉を軽くあしらわれて、落胆するよりむしろムカつく。
「まぁそれでも感謝はしよう」
相変わらずの上から見下ろす発言に噛み付く間もなく、どこからともなく彼は銀色の鍵を取り出して目の前にかざした。
「お望みの資料室の鍵だ。仕事が終わるまでここで大人しく待っていたまえ。夕飯くらいは奢ろう」
「そのあと、あんたの家な」
「…アルフォンスは?」
「アルは国立東方図書館。俺は今日は帰らないかも、って言ってある」
用意周到だな、と深い溜息と共に吐き出されたけど。
それを綺麗に無視して、白い指先に弄ばれていた鍵をひったくって。
まだ僅かに濡れている黒い睫を、もう一度舐め上げた。
end
'07.9.9
ほんとは拍手用SSの方を先に書いてたんですが、途中で
ん? ロイエド?
みたいになっちゃったので、急遽書いた逆バージョン。
なので、ネタどころか構成もかぶっててすいません。つか二つとも上げるなよ、自分(笑)
ロイエド風エドロイも好物なんですけど、自分のを自分で読んでも全ッ然面白くない…。